インターネットのお友達から読書感想文を書かないかとのお誘いを受けました。課題図書は名著、『アルジャーノンに花束を』とのこと。手元になかったのでさっそく楽天市場でポチって早川書房のハードカバー版を入手しました。電子図書より紙の本、それもハードカバーの方が気分アガるなぁと思ったからです。
読み進めるごとに、むかし読んだ記憶が少しずつ蘇る体験をしましたが、主人公のチャーリィが知能を向上させる手術後に、過去体験を明晰に思い出す様相ともまた重なり合うところがあって、なんだか不思議な気分でした。そもそも、こうして開いているハードカバー版『アルジャーノンに花束を』は、かつて私の祖母の家の本棚で見かけて、それで読んだことがあったのです。祖母の家を売りに出す際、本棚にみっちり詰まっていた大量の本を処分しました。状態のいいものだけ回収してきたのですが、『アルジャーノンに花束を』はいったいどこに紛れてしまったのか、検討がつきません。

『アルジャーノンに花束を』は、主人公チャーリイが受けた手術による知能指数の向上により、認識の解像度が変貌したことで、世界そのものの展望と、人間関係の変化や発展、別れが織り交ぜられる物語なのですが、改めて読んでみると、日記の形をとった意識のグラデーションの描写がとても稠密。自分自身がチャーリイであるかのように自意識を再構成させられる感覚に陥ります。
初めのうちチャーリイの意識は、霧のかかった状態で体験と情景が混ざり合い、記憶も曖昧ながら、印象派の絵のように混濁した柔らかさのある世界観でした。しかし、世界を眺める解像度が高まってくると、もはや「絵」の中の登場人物をやっているわけにはいかなくなり、極めて現実的、実践的なアプローチの中で、人としての尊厳を保つゲームに参加しなければならない。その切実さが読んでいて胸にくるものがありましたね。
そのゲームにはチャーリイだけじゃない。この本に出てくる全ての登場人物が参加し、自分の尊厳を保つために必死なのです。主人公のチャーリイは、他人の尊厳の保持という宿命にとって、あるときは(チャーリイ自身の尊厳を踏みじにられる形で)仲間・友人・恋人として迎えられ、あるときは、「招かれざるもの」として扱われる。どうあろうと、チャーリイは孤独になってしまうのです。
ところで、改めて読んでみると、アルジャーノン(ネズミ)の存在感が意外と薄いことに驚きました。重要なキャラクターなのは間違いなく、チャーリイにとって大事な友達でもあるし、自分の将来的な予兆を知らせるシンボルでもある。特に物語中盤以降はそうです。異様な行動を取るアルジャーノンに自己の劣化と破滅を見出し、能力の時限性を見極めたからこそ、チャーリイは行動を決意するわけですね。そしてアルジャーノンの死後、実母に会うために故郷を訪ねる。解像度の高まった目で眺めたその描写というのが、私個人としても身につまされた経験があるので、とてもリアルに感じます。
そこでもしチャーリイが故郷に留まり、母と孤独に二人暮らしをする妹のもとに残ることができたとしたら、チャーリイは不安定に揺れる自分の立場とはまた異なる土台を手に入れられたはずです。しかし、すでに知能的に「下降」に向かっていたチャーリィは、そのまま生まれた地に留まり、兄としての立場を尽くすこともできない。やがて意識が哀しくもほぐれていき、あれほど巧みに描写されていた日記も、徐々に柔らかく、平坦に溶けていく。やがて多くのものを忘れきり、それでも体が覚えていたように、かつての出発点へと遡っていく。
でも、いちど社会的な上昇と下降を経た人間は、その始めの場所にすら戻れないのですね。いや、最後までチャーリイに残された「人としての尊厳」が、そこに留まることを許さなかったのでしょう。チャーリイは自分のことを誰も知らない場所へ向かいます。ひらがなまみれの優しい柔らかな日記の中で、これまで出会った人たちに感謝の言葉を紡ぎながら。そして、アルジャーノンのお墓に花束を供えるように追伸を添えて、このお話は終わります。
是非考えなければならないと思うのが、チャーリイに他の人生の可能性があるのなら、という他人の想像力や希望が、実は人を陥れることにつながるということです。チャーリイにはチャーリイの人生がある。ちょっと専門領域の話をすると、2014年には「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」も採択されました。現代においてチャーリイのような立場の人がより尊厳を保つ生き方ができるよう、福祉業関係者は倫理感を共有して対応しているはずですが、実際はそうでもないような話を身近でも見聞きします。
ならば、技術的に知的障害を解決するべきではないかとなるところですけれど、現時点においても倫理的な判断が進んでいないのですし、なによりチャーリイが受けたような知能指数が回復する手術がそもそも確立されてもおらず、今後可能になったとしても、倫理的な反発も起き、様々な取り決めに長い時間が必要になることでしょう。
とはいえ、仮に技術が発展し、倫理観の変化した未来において先天的な障害を技術で取り除くことが普通になれば、チャーリイのような人はいなくなるのか。おそらくは違うでしょうね。人を「スペック」と表現することは嫌いですけど、その人自身がもつスペックにより社会階層に閉じ込められ、窮屈さを強いられるというのは、当然ながら未来にも起こりうると思うのです。そもそも、私たちはそういう社会しか知らないまま歴史を紡いでいるわけですし。
さらに仮の話として、遙か未来で社会階層的なものが消えた世の中が訪れたとしますか。でもそれって、なんだかチャーリイの最後の決断みたいだなとも思うのです。誰も自分を知らない場所にいくことを決意したチャーリイのように、それまでの人類史を捨てて、崇高で孤独な決断を人類そのものが受け入れるなんてことができるのだろうか。それが可能だとすれば、きっと人のスペックが限界値を迎え、人間同士が相対性を失うことが前提です。それこそ究極的な人の平等ともいえますが、おそらくそんな世界には、チャーリイどころか誰の個性も残っていないのでしょう。まあそんなことを考えました。
(いつもと文体が違いますが、久しぶりにサブブログを書いたらこっちで使っている言葉を忘れてしまいました。まるでチャーリイみたいです。メインとサブで文体を変えていたのは気分転換みたいなものでしたが、それもなんか面倒な感じがしてきたところだったので、これからはほんわかした感じで書いていきます)