コンチネンタル彼岸

意識の別荘

バカな運転手、罪のないクルマ。

 

煽り運転だとかのニュースを眺めていると、バカな運転手に運転されるクルマが可哀想に思う。また、現実に煽り運転っぽいクルマをみつけると、「あのクルマはバカな飼い主に当たってしまってかわいそうだな」と感じる。

 

捉え方として、クルマを運転手と同化したキャラクターとして捉えてしまう癖があると思う。煽り運転や、そこまで行かなくても運転が乱暴な人がたまたま乗っていたクルマを、その運転手と同化してしまう捉え方だ。特定の軽自動車、スポーツカー、ワゴン車などが、「煽り運転をするタイプの人が乗るクルマ」として、ネットを眺めると紹介されていたりするけれど、それはもちろん曖昧な情報で、そのまま鵜呑みにするわけにもいかない。

 

ある特定のクルマに乗るから煽り運転をするようになるのではなく、クルマはただひたすら人に仕える道具で、自分の意思ではどうすることもできない。だから、人間の使い方によっては、まずクルマが汚名を被ることになる。「煽り運転しやすいクルマ」呼ばわりされてしまったクルマはかわいそうに、人に汚名を着せられているわけだ。

 

前提としてクルマには罪がない。罪の持ちようがない。ただ、私もそうだけど、乱暴な運転をするクルマをみると、「なんだあのプリ○ス」とか、まず運転手ではなくそのクルマ自体が「悪」であるように考えてしまいがちだ。そう考えていると、たとえば、自分がいざクルマを購入するとなった時に、「これ、よく煽ってくるクルマじゃん」などと苦手意識が残り、選択の対象が狭まる、なんてこともあるんじゃないか。

 

私は視点として、クルマと運転手は切り離したほうがいいと思う。もちろん、走行スペックの高いクルマを選ぶ人はピーキーな運転をしたがる人が選びやすいと思うけど、ほとんどの人は凡庸なクルマを選んでおり、車種からは運転手の性格がわかりにくい。だからこそ、車種と運転手を紐づけようとするのだろう。それでは特定の車種であるだけで差別し、裁くような様相にも発展してしまう。


こないだ、私の前方に色違いの同じ軽自動車が数台並んで走っていたことがあったが、そのうちの一台が、他の車に幅押せしたりなど煽りに煽った挙句、追越車線を相当な速さですっ飛んでいった。見た目がとても煽りには向いていないクルマが煽っているのをみていると、そのクルマの見た目と、運転手との噛み合わなさがひたすら気の毒だった。あの哀れなクルマは今どこで何をしてるんだろうかと、今もたまに思ったりする。