コンチネンタル彼岸

意識の別荘

老人のファッション①

 

自宅の本棚の整理をしたついでに、つげ義春の漫画を再読した。そこかしこに、味わい深い老人が描かれている。かつてそれらを描いた本人も、86歳になられた。

 

ところで私の住むあたりもなかなかの田舎である。道を歩くと、ほっかむりを被って、もんぺっぽいモコモコしたズボンを履いて歩くおばあさんとすれ違うこともある。ほっかむりって分かりますか。手ぬぐいとかを頭に巻いて顎のところで縛るファッション。こうするといかにも、つげ義春の漫画に出てきそうな塩梅になる。そういうおばあさんとすれ違ったあと、神妙な気分になる。なぜああも容姿が変わらないのだろう。つげ義春が『ゲンセンカン主人』を描いた半世紀前から、ほとんど変わらない容姿の老人が、未だに世間を歩いていることの不思議さ。


今すれ違ったお婆さんが80代だとして、50年前は30代で私と同年代になる。私はワイドパンツにローファーを合わせている。お婆さんはなにを履いていたのだろう。スカートかジーンズ、もしくはスラックスに、スニーカー、革靴、もしくはヒールを合わせていたかもしれない。和服派だったかもしれない。かつてそのようだった人が、若い時があったことなどまるでイメージできないほど、老人として完璧な容姿に埋没するものなのだろうか。ちゃんちゃんこ風のベスト、モコモコしたあったかそうなズボン、ゴム長靴、頭に手縫っぽい毛糸の帽子をかぶっているような。


完璧な老人のスタイルを見に纏い、はるか昔にいた老人の姿に、自分を準えるようにしている人。これは、自分自身の欲求(寒いとか、転ばないようにとか、色々めんどくさいからとか)に素直になった結果、時空を超えた老人の姿見を身につけたということなのか。それとも、そういったこと以上に、ある年齢から自分の意識以上の何かに従わざるを得ず、ある種の「装束」として、自然と身につけるものなのかもしれない。


などと考えた数日後、地元の病院のロビーで、GIVENCHYと胸の辺りに書かれた黒いパーカーを羽織り、クラッシュジーンズにテカテカしたエナメルのブーツを履いた御年80代と思われるお婆さんがひょっこり現れたのであんま関係ないなと思った。